アトリエ・アリスワン

フリーランスライター・ディレクターの竹内ありすです。

「さみしさ」との付き合いかた

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こんにちは!ありすぅです。

 

3月。別れが街にあふれる時期ではないでしょうか。

 

バスや電車の中でふと、ほこりっぽいにおいに混じって鼻をかすめるみずみずしい香りがすると思って振り返れば、そこには花束を手にした人がいる。部署移動かな、退職かな、いや、卒業なのかな。さまざまな想像が頭の中をめぐります。

 

私もそんな「別れ」を経験してきたばかり。

 

先日、会社での最終出勤日を終え、文字通り両手に花の状態で帰ってきました。きれいな生花が家でこんなにも存在感を放つのは結婚式を挙げて以来のこと。この景色を大切にしたすぎて、「花が長持ちする液」を花瓶に入れる夢さえ見てしまいます。

 

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さみしさって、蓋をすればするほど知らないところからしみだしてはきませんか?

 

退職のあいさつをしたときも、花束を受け取るときも、エールをもらったときも、一滴も涙は出てこなかったのに。なんでもない街路樹の枝先が揺れるのを見たときとか、弱火にかけた鍋の中で野菜たちがもうじき煮えそうなのをスプーンでちょっと押したときとかに、「さみしさ」がしみだしてくるのです。

 

とっても前向きな理由で会社を去ることに決めたのでさみしさを感じてしまうなんて、自分でも「大丈夫なの」と言いたくなってしまいます。でも、いいじゃないですか。

 

こんな気持ちを言葉に出して伝えずに進んでしまう人間に育ってしまったのですが、(そのかわり文章にしちゃう)一方母は「さみしさ」をめちゃめちゃ言葉にして伝えてきます。

 

 

「お気に入りのカフェが、閉店しちゃうらしいの。さみしい」

「お世話になった○○さんが、介護で退職しちゃうって。さみしい」

「楽しみに見ていたドラマが最終回を迎えてさみしい」

「あなたがドコモの家族回線から抜けちゃってさみしい」

 

 

 

LINEの検索で「さみしい」と入力すると母からのメッセージが圧倒的な数をもってヒット。

 

さみしさをぶつけられたあと、私はどうしたらいいか分からなくなります。「そうだね、さみしいよね」と共感したらいいのだとは頭でわかっていても、「いや、なんでも物事には終わりがあるのだから」とか、「あのカフェは立地が悪いからしょうがなかったんだよ」とか、「だって格安スマホにしたほうが安いもん」とか、分かったようなことをついつい言ってしまう。「なんか最近しめっぽすぎない?」と文句をたれる。

 

物事には終わりがあるから、今この瞬間を大切に。店や肩書きといったハコはなくなっても、思い出は生き続けるから。あなたの人生がそこで終わるわけじゃないんだから。

 

 

どこかで見知った名言めいたことを、別れの訪れにはいつも思ってきました。それが正しい「さみしさ」との付き合いかただと考えていたから。

 

 

でも、言葉にして伝えられるって必要で大切なことなのだったな、と、最近の大きめな別れ(退職)を経て「さみしさ」をとらえ直しました。

 

 

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江國香織さんの詩集『すみれの花の砂糖づけ』にこんな一節があります。

 

時間は敵だ
ときが経てば傷は癒される
せっかくつけてもらった
傷なのに

 

10年前、高校生のときにこの詩を読んで「傷」というフレーズに躊躇してしまったのですが、それでずっと印象に残って今日まで覚えているんですね。

 

傷は痛いものだけをさすのではなく、きっと出来事であり、思い出であり、言葉であるのでしょう。

 

「さみしさ」というのもまた、傷なのかもしれません。

 

乾燥させておいてカサブタになるのを待つか。特殊な構造のパッドを貼って、すぐに治してしまうのか。写真に撮って、「こんな傷だった」と視覚で永久保存するのか。

 

「さみしさ」との付き合いかたは、これからの人生でどんどん変化してゆく予感がしています。